たまりば

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Posted by たまりば運営事務局 at

はじめての就職

「長谷川くん! 長谷川くんじゃないのか!」
多摩センター行のバスに乗り込んだ時、バスの後方席から私を呼ぶ声がした。
「あの懐かしい、しゃがれた声は……?」
「もしかしたら? あの方!」
振り返ると、私が学生の頃勤めた出版社の社長湯本氏が身を乗り出して私の名前を呼んでいる。すでに70代になっておられるはず。でも細身の小柄な体にきちんとスーツを着ている姿は昔と少しも変わってはいない。
「(なぜ? 今? こんな場所で?)」
退職してからすでに20数年が経ち、乗り合いバスの中で偶然遭遇するなんて不思議な出来事である。しかも住まいは私と同じ松が谷団地。聞くと息子夫婦と別居するための仮住まいとのこと。信じられない現実にただただ驚くばかりだった。しかしこの嬉しい再会を機に、氏のお宅を度々訪ねるようになり、やがて個人出版のお手伝いをすることになったのである。
思い起こすと、湯本氏との出会いは、私の初めての就職先であった。今から53年前(昭和37年)春のことである。
私は15歳、家庭の経済的な理由から、中学を卒業後、働きながら夜間高校へ通う道を選んだ。
入学した高校は都立九段高校。入学後間もなく学校からの薦めで就職した会社は『潮流社』といい、大手企業の社内報の制作を請け負う出版プロダクションであった。
勤務する会社はJR飯田橋駅から歩いて10分位。飯田橋駅西口を出て左折、警察病院を右に見ながら、なだらかな坂を上って行くと、正面に都立九段高校の正門が見えてくる。朝はその正門の前を通り過ぎ、さらに靖国神社の鳥居の前を通り過ぎると千鳥ヶ淵が目前にひろがる。皇居北の丸公園の田安門から日本武道館の大屋根が見える千鳥ヶ淵の傍に、私が初めて就職した『潮流社』があった。千代田会館という雑居ビルの半地下にあり、隣は印刷紙業社という業界誌の出版社。トイレも厨房も共同、社員旅行を合同で行くほど、隣同士仲が良かったことを覚えている。そういえば、古いアルバムを開くと浴衣姿で宴会をしている写真があった。
 就職当時は2年後(昭和39年)の東京オリンピック開催を前にして、日本の経済は高度成長時代に入り、右肩上がりの経済が加速を始めた時代。私が初めて就職した会社もその波に乗り、全国に支社をもつ鉄鋼会社や観光会社の社内報を請負っていたのである。
 しかし、社員は社長を含めて5人だけ。社長、編集長、経理、残り私を含む2人の編集担当者のみ。一人ひとりが戦力にならなければ成り立たない会社である。毎日編集長のもとで、現場での仕事をこなしながら編集のノウハウを学んだ。
全国の支社から届いた原稿の整理、編集、割り付け(レイアウト)、校正作業、色指定、空きスペースがあればカット(イラスト)を描いて入れるなど、担当する仕事は全てひとりでやりとげなければならなかった。一度教わったことを忘れて再度聞き直すと、「一度聞いたことは二度と聞くな!」と、編集長から厳しい叱責が飛び、仕事への曖昧な姿勢を諌められたこともたびたびである。
それでも十代の私にはその責任の重さを計り知ることもなく、むしろ未知の世界に興味津々。仕事の楽しさにのめり込んでいった。刷り上がった社内報を手にしたときの嬉しさは格別で、少し大げさかもしれないが、おそらく漁師が大物の鮪を釣り上げた時のような達成感に似ているかも知れない。その感覚が忘れられず編集という仕事にのめり込んだ。
私は大学受験のために、3年間だけ、この会社でお世話になったが、保育士になることが夢だった私が、編集の仕事の魅力に取りつかれ、「初めての就職」が「生涯の仕事」になってしまった。そして38歳の時、多摩ニュータウンの松が谷団地でタウン紙を創刊することになったのだが、それは青春時代からずっと抱えていた夢の実現だったのかもしれない。
そして、冒頭に述べた湯本氏との再会。人と人の縁には目に見えない深い意味と絆があるのだろう。
  


  • 2015年06月16日 Posted by たまのばあちゃん at 20:43Comments(0)現役ばあちゃん奮戦記自分史

    楽楽自分史講座がスタートします1

    間もなく自分史講座が開講します。
    題して「楽楽自分史講座」、多摩市関戸公民館の市民企画講座として開催です。
    1200字で自分史を書き、講座の最終日には1冊の本が完成する講座です。
    自分史のテーマは参加者によってさまざまです。
    人生にとって大切なパートナーとの出会いと結婚、家族、孫の誕生、仕事等々…。
    1枚の写真から、忘れられない出来事を切り取り、語り、文章や絵にしてみることから始めます。
    過去を振り返り、書き進めて行く中で、沢山の気付きに出合う筈です。
    例えば「あの大病を煩った時は苦しい毎日だったけれど、今から思うと、よくがんばったと思う…」
    今だからこそ判る「自分」への発見ですね。
    そして周囲の人々への感謝も生まれます。
    自分史を書く効用は、自分をあらためて見つめ直すこと。
    我が人生の総括をするために一代記を書くというより、
    自分史はこれからの未来を豊かに生きるために書くのです。
    自分史に興味をお持ちの方、お気軽にご参加下さい。

    講師は、児童文学作家の菊地澄子さんにお願いしました。
    自分史の書き方として、プロットとテーマの作り方や、
    テーマにそって文章を書く方法等、個別の指導も行います。

    詳細は
    http://tamashiminpro.org/wp/wp-content/uploads/2014/05/raku2-print1.pdf  


  • 2014年05月25日 Posted by たまのばあちゃん at 23:27Comments(1)現役ばあちゃん奮戦記

    母の背を見て子は育つ

    長いゴールデンウィークが過ぎてホットしています。連休になると、編集部は超ハードスケジュールになるからです。
    週刊発行の「もしもししんぶん」の締切は毎週月曜日。通常の場合は火曜・水曜でデザイン制作と校正作業、木曜は最終チェック後に印刷所にデータ入稿、金曜に色校正〜完全データ入稿、土曜に印刷…。週刊発行の流れです。連休ともなると、全て早めに準備しなければ間に合いません。が、しかし、今回は「もしもししんぶん別冊版・医療特別号」の編集も重なり、何とも連休が恨めしい〜状態でした。
    それでも見事に乗り越え、今日は医療特別号の色校正が終了。いよいよ明日完全データ入稿です。
    この連休中、編集長のTは子連れ出勤。ひたすら原稿を書き続ける彼女のそばで、小学生のSちゃんは書類の整理等のお手伝いをしてくれました。翌日、彼女が帰宅すると「お母さんへ」と書かれた手紙がテーブルの上に。
    「私は、お母さんが仕事をしていて、もっとお母さんが大好きになりました。土日お母さんが仕事に行く時は、いつもついていって仕事を手伝いたいです。なぜなら楽しいからです…」と。
    いつも忙しく帰宅が遅い彼女ですが、「手をかけられないけど、目と心をかけている」という母親の想いは、しっかりとSちゃんの心に伝わっているようです。
    そんな二人を見ていて、私も子育てをしながら働いていた若い頃を思い出しました。念願の再就職を果たし時のこと。保育園に入園したものの、連休中は頼りの保育園はお休み。止むなく子ども達をつれて出勤し、職場の中で子ども達が迷惑をかけないようにドキドキしながら仕事をしていました。思い起こすと、親も子も頑張って少しずつ育っていたように思います。
    女性が子育てをしながら働き続けるなら、一度や二度、我が子を職場に連れていくことがお勧めです。母親がどんな職場で、どんな人たちと、どんな仕事をしているのか、子どもの記憶に残っていれば、そばに母親がいなくても、お母さんの姿は子どもに見えているのですね。娘2人と同じ職場で働く今だからこそ、そんなことが言えるのかもしれませんが。
    働くお母さん達、社会の中で生き生きと働くかっこいい姿を、子ども達に見せちゃいましょう!
    女性が働くことが自然になった今、「母の背を見て子は育つ」時代なのですから。

      


  • 2013年05月13日 Posted by たまのばあちゃん at 21:51Comments(2)現役ばあちゃん奮戦記

    結婚40年目に感謝

    この3月、結婚40年目を迎えました。お互いに66歳になった私たち夫婦、元気に仕事が出来ていることに大感謝です。
    人間は一人で生きていくことはできません。誰かを支え、誰かに支えられて、心を通わせて生きているからこその豊かな人生。
    その最も身近な存在こそ家族であり、夫婦といえるでしょう。
    40年間様々なことがありました。夫が36歳の時に胃ガンを発病。46歳、49歳と再発。そして65歳で4度目の手術を乗り越え、1年後の今月、検査の結果「全く異常なし」との診断結果にホットしています。癌との戦いは壮絶でしたが、今になってみるとひとつひとつの出来事に意味があるのですね。友人曰く「怪物くん」が夫への愛称。沢山の方々の励ましのおかげで、癌細胞は絶望と共に増え、希望と共に減ることを実感しています。本当にありがたいことです。その恩返しに、地域でお役に立てる生き方を目指し続けたいと思っています。縁の下の力持ちとして。
    40年前の結婚式で恩師からいただいたメッセージが、日々心の中に息づいています。
    「いつまでも尊敬できるご夫婦に。それには互いの長所を知ることです」と。
    まず自らが成長しなければ、夫の”長所を見つける”ことができないということを学んだ大切な言葉。人は一生を賭けて自身を磨いてこそ幸せなのですね。日々「これから!」と前へ前へと着実に歩き続けようと思います。
    おばあちゃんにも輝く未来があるのですからね。
      
    タグ :自分史


  • 2013年03月22日 Posted by たまのばあちゃん at 13:46Comments(2)現役ばあちゃん奮戦記

    サクラ散る! 

    「サクラ散る」のメールが届きました。先日チャレンジした「シニア情報生活アドバイザー」認定試験に落第です。
    試験の結果は次のとおり。
    1、シニア向けの教材を作りプレゼン
    2、Windows7の環境設定、各種トラブルの対処法、インターネットの立ち上げなどの20問に文章で解答するペーパー試験、
    この2科目は合格したものの、
    3、フリーソフトで2点の作品を作り、ネットをつなぎ、作品をメールで送信する実技試験が73点、合格ラインの80点に及ばず失格です。幸い再挑戦出来るので、めげずに「実技試験」の合格を目指すことにしました。

    思えば、日常生活でWindows7を使ったことのない私が、1カ月間PCを借りたものの、合格に至らなかったのは当然のことでした。
    それでも、「孫の似顔絵を描く」ことをテーマに、フリーソフト「ゆめいろえのぐ」を使い、シニア向けの教材を作ったことが、かすかな自信につながりました。
    写真はパソコンで初めて描いた孫の似顔絵です。絵の具も水もいらない水彩画にはまってしまいました。この楽しさを身近なシニアの方達と共有したい。そのためには、必ず合格を勝ち取るとぞーicon22と決意。
    只今、本格的にWindows7を学ぼうと計画中。内心とってもワクワクしています。
      


  • 2012年10月19日 Posted by たまのばあちゃん at 20:46Comments(3)現役ばあちゃん奮戦記

    敬老の日は過ぎたけれど…

    9月は、仕事とシニア情報生活アドバイザーの資格取得の勉強に大忙しでした。
    そんな中、朝日新聞東京本社の社会部記者の方から、ブログ「未来の宝、孫たちへ」を見て取材依頼がきました。
    17日の敬老の日を前に、前期高齢者になった団塊世代を取材しようというもの。
    9月15日夕刊に掲載され、テーマは「団塊世代も65歳」。「育ジイ」で罪滅ぼし、「趣味に投資」という見出しが載っていました。

    我が夫は「育ジイ」ではないけれど、かわいい孫3人と一緒に写真が掲載された。孫たちとの楽しい時間に、にこやかに目を細めている穏やかな表情は、やはり「この年齢」になったからこそ。若かりし頃は毎晩帰宅は夜中。こんな笑顔で我が子を見守る時間が無かったように思う。我が子に「してあげたかったこと」が、孫への想いになる。「罪滅ぼし」と言われるのならそれでもいい。セカンドライフは社会に貢献できる次の仕事を見つけたいと思う。未来の宝、孫たちのために。
    聖路加国際病院理事長の日野原重明氏のコメントが同じ紙面に掲載されていました。
    氏は現在100歳。「65歳なんてまだ若い。これからの人生は長い。新しいことに挑戦し、人生を楽しんでいる姿を若い世代に見せて欲しい」
    と。私も生涯現役で仕事は続けたいと思う。いつも「これから」と。  
    タグ :団塊世代


  • 2012年10月04日 Posted by たまのばあちゃん at 00:53Comments(0)現役ばあちゃん奮戦記

    シニア情報生活アドバイザー試験に挑戦しました。

    「シニア情報生活アドバイザー」の試験に挑戦しました。
    高齢者がパソコンやネットワークを利用して、楽しく活動的な生活を送れるようになることを目指した「シニア情報生活アドバイザー制度」は、
    経済産業省外郭団体の(財)ニューメディア開発協会が認定している制度。
    講座は9月毎週(土)4回講座で、しかも4回目の午後が試験という短期間。
    最初の1日目参加して気がついたことは、PCはWindows7を使うということ。
    こんな基本的なことを知らずに試験に挑戦するなんて、愚かでした。
    私が日常で使っているPCは「Mac」でしたから、焦りました。基本が全くわからないのですから。
    おまけに、1日目から、フリーソフトを使用したシニア向けの教材作りが宿題です。
    まさにお手上げ状態です!
    帰宅して続けるかどうか迷いましたが、後戻りはできません。
    今回学ぶ「シニアSOHO三鷹校」からWindows7を1カ月間お借りし、
    最後迄課題に挑戦することしました。

    2日目。
    フリーソフトで2点の作品を作り、ネットをつなぎ、作品をメールで送信する実技、
    Windows7の環境設定、各種トラブルの対処法、インターネットの立ち上げ、トラブル対応他を教材で学ぶ。
    3日目。
    自分で作成したシニア向け教材を使いプレゼン。
    4日目。
    午前中、最後の確認。午後試験。
    実技・プレゼン・ペーパー試験(設問20題) でした。
    途中、補講をお願いして、何とか最後迄がんばることができ、講師の先生方に感謝です。

    昼間は仕事があるため、自習は夜。
    睡眠不足になりながらも、試験当日は朝4時までWindows7に向き合いました。
    こんなに集中的に勉強したのは、本当に久しぶりでした。
    合否の結果はともかく、充実した達成感を味わっています。
    といいながら、もう夜中の1時半です。  


  • 2012年10月01日 Posted by たまのばあちゃん at 01:38Comments(5)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから(6)ーありがとうー

    「週刊もしもししんぶん」が創刊27年目を迎えました。
    これまで、地域のコミュニティーを支えて下さったクライアントの皆様に心から感謝申し上げます。フリーペーパーは広告掲載店のご協力がなければ発行が出来ません。もちろん継続して行くことも。

    「もしもししんぶん」は、地域の皆様の様々なご要望にお答えしようと、少しづつ変化を続けてきました。月2回発行から週刊発行へ、モノクロから4色カラー刷りへ、2万部発行から現在8万5千部へ、そして、10月からは多摩市全域にお届けすることになりさらに1万部を増部することになりました。これまでは多摩ニュータウン地域(多摩市、八王子市、稲城市、町田市)と、八王子みなみ野シティ地域(八王子市)を発行エリアにしてきましたが、「読みたい」と言って下さる読者の方々のご希望を受けてて、準備を進めてきました。
    数日前、初めてお届けする連光寺地域の自治会にご挨拶に伺い、「もしもししんぶん」を各家庭にポスティングする許可をいただいてきました。この地域は、各家庭のポストに自治会の「チラシお断り」のシールが貼られているからです。が、以前イベントの掲載依頼をされたこともあるとのこと。快いご返事をいただきほっとしました。27年間の中でお役に立っていたのだと思うと、本当に続けてきて良かったと思います。

    「もしもししんぶん」は直接読者のもとにお届けするポスティングシステムを使用しています。フリーペーパーといっても、読んで活用したり、必要として下さる読者やクライアント様のもとにお届けすることが目的です。ですから、「チラシお断り」のお宅にはむやみに投函しません。ポストにチラシなどが詰まったままになっているお宅にも投函しません。このポスティングを担当するエリアスタッフは約130名、地域を知り尽くした主婦を中心に、最近では定年後の男性の方々が多くなっています。
    創刊以来ずっと続けている方もいて、本当に感謝です。ありがとうございます。

    さて、今後急激に高齢化が進むこの街には、どんなニーズが生まれて行くのでしょうか。「ホットな心をつなぎます」というコンセプトを原点に、新しい可能性を探りたいと思います。  


  • 2011年09月26日 Posted by たまのばあちゃん at 01:00Comments(0)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから(4) ー創刊号でクレーム!ー

    9月1日は「もしもししんぶん」の誕生日。この日はタウン紙発行の目的を再確認する「原点の日」です。
    人と人をつなぐコミュニティ情報の発信、地域活性化の一助を担うこと、そして発行日を厳守すること、この三つの目的をはずしてタウン紙の存在はありません。

    忘れてはならない厳しい教訓があります。創刊号を発行しホットしたのも束の間、「発行日が遅れたことによる契約違反」というクレームが発生しました。「もしもししんぶん」の配布が発行日までに完了していなかったことが原因でした。タウン紙の制作は一人で出来ても、読者のもとにお届けする作業は到底一人では不可能なことでした。そんな当たり前のことを考える余裕もなく印刷された創刊号は、夫と当時小学生だった三人の子どもと達と家族総出で配布することに。しかし発行日当日は深夜までかかっても二万部の配布は完了出来ず、翌朝一般紙に折り込むことにしました。取次店に「もしもししんぶん」を持ち込んで、一般紙への折込は早くても翌日、発行日より二日の遅れです。このことが、「契約違反」という厳しい結果をうみました。

    定期発行物は読者のもとにお届けしてこそ発行されたことになります。趣味や道楽ではなく、広告を掲載して発行する媒体の責任の重さを思い知らされました。広告をいただいたお客さまには丁重にお詫びし、事なきを得ましたが、創刊号でいきなり厳しい現実に出合い、急遽ポスティングのスタッフを募集することにしました。

    当時の配布エリアは多摩市永山、貝取、豊ケ丘、落合、鶴牧と八王子市松が谷、鹿島、南大沢の二万軒を担当する地元の主婦を中心に力強いスタッフが誕生しました。その中に社内スタッフよりも長いお付き合いをいただいて、 20 年 以上もの間、共に歳を重ねてきた方々もいます。本当に大切な方々です。
    スタッフがお休みの時は私もポスティングを担当します。
    「いつも楽しみにしていますよ」という読者の声を励みに「雨の日も、夏の暑さにも負けずに」、直接ポスティングです。
    毎年秋には、エリアスタッフ120名が一同に会する総会を開催。年一回の楽しい感謝の集いです。  


  • 2011年08月13日 Posted by たまのばあちゃん at 03:16Comments(4)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから。(3)ー生涯の恩人ー

     タウン紙の発行を続けるために、夫を担保にした悪妻の私。いったいどれくらいの借金を作ったかというと、創刊して3年の間に未払金が200万円を超えていました。勤務先が妻の借金先となり、夫は複雑な心境だったに違いありません。が、その大きなプレッシャーを営業活動にかけ、いつも売上は上位を走っていたようでした。
     夫がその会社に就職したのは昭和60年6月。前年の夏に大病を患い都内までの通勤を断念し、町田市にある印刷会社に応募し採用されました。それまで出版社や印刷関連会社に勤務し、その経験を生かせる願ってもない職場でした。そして、奇しくもその3カ月後に私がタウン紙を創刊することになり、印刷を依頼することになったのです。
     未払金が次第に膨らみ、「もう止めた方がいい」という夫の言葉に、タウン紙の発行を断念しかけた時、私の背中を力強く押して下さったのは社長のKさんでした。私たちはその信頼に応えようと、一躍発心したのはいうまでもありません。その後も長期にわたって公私ともに大変お世話になりました。Kさんは私たちのかけがえのない恩人です。

     創刊2年目の9月、責任ある仕事をするために有限会社として法人化を決意、自宅のキッチンを出て、多摩センター駅前のアパートに事務所を構えました。4畳半1間、リサイクルで購入した事務机に1本の電話を引いただけの小さな編集部でした。
     20数年前の多摩ニュータウンは開発途上にあり、商業施設も少なく、広告取りに歩く営業先を探すことすら困難でした。また、営業経験のない編集あがりの一主婦がどうがんばっても、広告で紙面を埋めることができず、創刊3年を過ぎても印刷費を返済するまでにいきません。それでも発行を止めなかったのは、読者の反応が大きく、タウン紙の役割の大きさを実感していたからです。
     現状は厳しいものの、10万世帯人口30万人を目標に街作りが進む多摩ニュータウンは、活気に満ち溢れていました。新しい街に移り住んだ「新住民」の間では市民活動が盛んになり、公民館活動からさまざまな市民サークルが誕生し、取材対象は大きく広がっていきました。限りない可能性と未来性をもった街で、経営は苦しくても、”読者が主役”をコンセプトにした「もしもししんぶん」は少しづつ成長し、人々に認知されるようになっていきました。

     創刊4年目を迎えた頃、野原が目立っていた多摩ニュータウン通りには次第に店舗が立ち並ぶようになり、飛び込み営業は悪戦苦闘しながらもクライアントが増え始めていきました。少しずつですが未払金の支払いも可能になり、返済期間は約5年間、創刊10年目迎えるまでの月日を要しました。
     完済までの長い間、何も言わずに待っていて下さったK社長への感謝は計り知れません。タウン紙の発行は印刷会社との信頼関係が不可欠です。その信頼と期待にを大切に、毎月の印刷費は、必ず持参することを心がけてきました。K社長への御礼を込めて。
       


  • 2011年08月07日 Posted by たまのばあちゃん at 22:51Comments(3)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから。(2) ー担保になった夫ー

    「もしもししんぶん」の創刊は26年前の9月1日。多摩ニュータウン一角にある「松が谷団地」に入居して間もなく、お隣さん同士のコミュニティーを広げたいとの思いが動機でした。小学生の3人の子どもたちと夫、両親の七人が暮らす3kの都営住宅。キッチンの片隅に置いた小さな机が編集部でした。

    多摩ニュータウンに住む主婦による主婦のためのミニコミ紙は、B4判ペラ1枚モノクロ印刷、毎月1・15日20000部の発行でした。発行日は待ったなしでやってきます。情報収集と取材、記事や版下作りをしながらスポンサーの獲得に動く。毎日手作りの名刺を20枚持って飛び込みの営業です。「この名刺を配り終わらなければ帰らないぞ!」と意気込んで、まだ姿形のない「タウン紙」への広告掲載をお願いして歩きました。それまで全く営業経験がなく、怖いもの知らずの私は、使命感に燃えて突っ走りました。今から思うと、当時の無鉄砲さに身震いさえします。

    定期発行物のため、どんな理由があっても、発行日が遅れたり休刊したりすることはできません。目標の広告が取れなくても、空いた紙面を記事で埋めて制作します。一件でも広告が入れば、掲載料の金額に関わらず発行する事に全力を上げます。例え赤字になっても、広告主の誠意にこたえることが、信頼の絆を作ることになると信じていました。タウン紙を発行する責任者として、この姿勢は今も変わりません。しかし、広告が取れずに赤字の発行が続けば継続は出来なくなります。フリーペーパーは無料配布ですから、発行のたびに、印刷所への未払金は確実に膨らんでいきました。

    そんな時、傍でハラハラしながらも見守ってくれていたのが夫です。当時、タウン紙の印刷を依頼していた会社に勤務していた夫は、私にリスクの大きい仕事を許したことを後悔していました。発行に直接携わらなくても、資金面の出処は夫の給料しかありません。しかも、自分が働いている会社が妻の借金先ともなれば、夫は「鍼の筵」に座る思いです。ある日、夫は言いました。「俺は担保か」と。

    現在代表を務める夫は、お客さまに「創業者は女房です」といいますが、夫という経営者がいなければ、タウン紙の継続はできませんでした。創刊の「始め一歩は」一人でしたが、隣に厳と存在する夫という同志がいて守られてきました。本当に感謝です。  


  • 2011年08月01日 Posted by たまのばあちゃん at 00:44Comments(4)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから。(1) ー母は太陽ー

     私は働くことが大好き。例えば忙しくて徹夜になっても苦しいと思わないくらい仕事が好きなのです。求められれば応えたい、と思うからです。性分ですから止めようがありません。
     子どもの時からの夢は、「職業婦人」になることでした。少々古い言葉ですが、「経済的な自立のできる女性」ということでしょうか。現代では女性が社会に出て働くことはごく自然なことですが、今から30数年前は、女性が働き続ける壁はとても厚いものでした。
     私の母は聴覚に障がいがあり、職業は持ちませんでした。それでも8人の子どもを育てながら、貧しさにも負けず、決して自分を卑下することなく、堂々と生きてきた気丈な人でした。まさに「太陽」のような女性でした。この母の偉大さは、子育てを終えた年齢になってから理解出来るようになったのですが、幼い頃は、経済力を持たない母の人生は、生きる選択肢を持てない弱い立場に見えました。そんな環境が「働く女性」への憧れになったのでしょう。
     ベビーブーマーと呼ばれた私たちの世代は、受験戦争に巻き込まれ、当然ながら職業に就くことも競争でした。私は某学校の夜間高校に学びながら、幸いにも小さな出版社に就職することができました。企画、取材、原稿書き、校正、写真撮影、空きスペースがあればイラストも描くなど、出版に関することは、全て一人でやり遂げなければなりません。仕事に厳しい鬼の編集長には、一回教えられたことは二度と質問することができませんでした。仕事は一日中緊張の連続でしたが、その反動で夜学生活は何と楽しかったことか。あの青春時代の奮闘は本当に懐かしく、このまま生涯現役で働き続けたいと思うエネルギーの源でもあります。
     「もしもししんぶん」を創刊した時、同居していた母が50万円の出資をしてくれました。その資本金で、多摩センター駅前にあった4畳半一間のアパートを借り、電話を一本引いて編集部が完成。たった一人でスタートしたタウン紙の発行は、今は亡き母の応援が支えでした。  


  • 2011年07月23日 Posted by たまのばあちゃん at 01:20Comments(2)現役ばあちゃん奮戦記