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Posted by たまりば運営事務局 at

はじめての就職

「長谷川くん! 長谷川くんじゃないのか!」
多摩センター行のバスに乗り込んだ時、バスの後方席から私を呼ぶ声がした。
「あの懐かしい、しゃがれた声は……?」
「もしかしたら? あの方!」
振り返ると、私が学生の頃勤めた出版社の社長湯本氏が身を乗り出して私の名前を呼んでいる。すでに70代になっておられるはず。でも細身の小柄な体にきちんとスーツを着ている姿は昔と少しも変わってはいない。
「(なぜ? 今? こんな場所で?)」
退職してからすでに20数年が経ち、乗り合いバスの中で偶然遭遇するなんて不思議な出来事である。しかも住まいは私と同じ松が谷団地。聞くと息子夫婦と別居するための仮住まいとのこと。信じられない現実にただただ驚くばかりだった。しかしこの嬉しい再会を機に、氏のお宅を度々訪ねるようになり、やがて個人出版のお手伝いをすることになったのである。
思い起こすと、湯本氏との出会いは、私の初めての就職先であった。今から53年前(昭和37年)春のことである。
私は15歳、家庭の経済的な理由から、中学を卒業後、働きながら夜間高校へ通う道を選んだ。
入学した高校は都立九段高校。入学後間もなく学校からの薦めで就職した会社は『潮流社』といい、大手企業の社内報の制作を請け負う出版プロダクションであった。
勤務する会社はJR飯田橋駅から歩いて10分位。飯田橋駅西口を出て左折、警察病院を右に見ながら、なだらかな坂を上って行くと、正面に都立九段高校の正門が見えてくる。朝はその正門の前を通り過ぎ、さらに靖国神社の鳥居の前を通り過ぎると千鳥ヶ淵が目前にひろがる。皇居北の丸公園の田安門から日本武道館の大屋根が見える千鳥ヶ淵の傍に、私が初めて就職した『潮流社』があった。千代田会館という雑居ビルの半地下にあり、隣は印刷紙業社という業界誌の出版社。トイレも厨房も共同、社員旅行を合同で行くほど、隣同士仲が良かったことを覚えている。そういえば、古いアルバムを開くと浴衣姿で宴会をしている写真があった。
 就職当時は2年後(昭和39年)の東京オリンピック開催を前にして、日本の経済は高度成長時代に入り、右肩上がりの経済が加速を始めた時代。私が初めて就職した会社もその波に乗り、全国に支社をもつ鉄鋼会社や観光会社の社内報を請負っていたのである。
 しかし、社員は社長を含めて5人だけ。社長、編集長、経理、残り私を含む2人の編集担当者のみ。一人ひとりが戦力にならなければ成り立たない会社である。毎日編集長のもとで、現場での仕事をこなしながら編集のノウハウを学んだ。
全国の支社から届いた原稿の整理、編集、割り付け(レイアウト)、校正作業、色指定、空きスペースがあればカット(イラスト)を描いて入れるなど、担当する仕事は全てひとりでやりとげなければならなかった。一度教わったことを忘れて再度聞き直すと、「一度聞いたことは二度と聞くな!」と、編集長から厳しい叱責が飛び、仕事への曖昧な姿勢を諌められたこともたびたびである。
それでも十代の私にはその責任の重さを計り知ることもなく、むしろ未知の世界に興味津々。仕事の楽しさにのめり込んでいった。刷り上がった社内報を手にしたときの嬉しさは格別で、少し大げさかもしれないが、おそらく漁師が大物の鮪を釣り上げた時のような達成感に似ているかも知れない。その感覚が忘れられず編集という仕事にのめり込んだ。
私は大学受験のために、3年間だけ、この会社でお世話になったが、保育士になることが夢だった私が、編集の仕事の魅力に取りつかれ、「初めての就職」が「生涯の仕事」になってしまった。そして38歳の時、多摩ニュータウンの松が谷団地でタウン紙を創刊することになったのだが、それは青春時代からずっと抱えていた夢の実現だったのかもしれない。
そして、冒頭に述べた湯本氏との再会。人と人の縁には目に見えない深い意味と絆があるのだろう。
  


  • 2015年06月16日 Posted by たまのばあちゃん at 20:43Comments(0)自分史

    自分史と母の遺言

     今、「自分史」をつくることが静かなブームになっています。最近も「自分史」と「歌集」の出版をしたばかりです。どちらも著者は80代の方々。
    お一人は88歳を機にこれ迄の人生をまとめた「我が思い出の記」です。壮絶な戦争体験、そして終戦と就職、結婚、セカンドライフ、4章にわたった大作でした。89歳を迎える前にと、昨年1年間をかけてパソコンと格闘し、家族や孫たちのため、そして戦友にと40冊を出版しました。ありのままの体験や経験を書き綴った「自分史」です。
     もう1冊の歌集は、青春時代の2年間から空白の50年を経て、夫亡き後に再開した短歌集「花びらの渦」です。著者がこれまで生きて来られた心のさまを短歌として表現された自分史です。
     誰しも自分の体験や経験はオリジナルのものであり、記録として残さなければ、自分が得た知識や知恵はそのまま消えてしまいます。「自分史」としての記録を何らかの形にして残しておくことで、家族や子孫、親しい友人とそれらの記録を共有することができるのです。その生きてきた証を残すことは大人としての使命であり責任でもあるといえるかも知れません。

     私にも、亡き母が書き残した1冊の日記があります。
     「―東京に来て、今までの日記は全部捨てた。母なき後に子供たちの涙をそそるから―」
     冒頭に書かれた母の言葉です。そしてノートの所々にはきれいに切り取られた跡が残っています。その足跡に、母の生きることへの強さと、残された我が子への優しさを見る想いがします。
    私の母は7歳の頃、音を失いました。明治時代のことで、医療のなすすべもなく、何週間も高熱が続いたことが聴覚障害を持つ原因になったようです。聴覚を失った母は小学校に行くこともできず、毎朝友達が畦道をあるいて学校に行く後ろ姿を、畑仕事を手伝いながら見送っていたようでした。
     「学校に行けないことが悲しくてねえ…」
     当時を思い起こしてそう語る母には、耳が聞こえないことよりも、学校に行けなかったことのほうが悲しく、辛かったに違いありません。
    そんな母が父と出会い、8人の子を産み育て、戦争を乗り越え、勝ち越えた人生の想いがこの1冊の日記の中に残されています。
    聴覚に障害があるため、母とゆっくり対話をすることができませんでしたが、「日記」を通し、母のメッセージが鮮やかに甦ってきます。まるで側に生きているように…。
     そして、温かな気持ちになれるのです。不思議ですね。
     「冬は必ず春となる」…母の大好きな言葉です。
     「人生の冬はどんな辛いこと出合っても、その苦しさに負けなければ、必ず春のような幸せな人生を生きていけるんだよ」
     77歳の母が書き残した「遺言」です。
      


  • 2015年03月20日 Posted by たまのばあちゃん at 11:26Comments(0)個人出版自分史

    平和のシンボル「陽光桜」

    写真は「陽光桜(ヨウコウザクラ)」の並木道。我が家のすぐ近く八王子市別所にある長池公園横のバス通りです。多摩ニュータウン西武地区最大の公園内の特別保存ゾーンにはマメザクラも見ることができます。3月22日、久しぶりに自然の中をゆっくりと散歩しながら、贅沢な時間を過ごしました。











    陽光桜のことを知りたくなり調べてみました。
    作者は愛媛県の高岡正明さん。(参考:NPO法人日本さくら交流協会 http://sakura-yoko.org/tour/tour02/speech02 )
    元教師だった高岡さんが戦場に散った教え子達のために天野吉野(アマギヨシノ)と寒緋桜(カンヒザクラ)との交配に25年をかけて改良したという。一重咲きで寒緋桜の紅色が残り、別名を紅吉野(ベニヨシノ)ともいいます。高岡さんは「平和のシンボル」として各地に送り続けました。
    陽光桜にはしっかりと人の想いが込められているのですね。とても幸せな気持ちになりました。


      


  • 2013年03月31日 Posted by たまのばあちゃん at 22:18Comments(1)自分史