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自分史と母の遺言

 今、「自分史」をつくることが静かなブームになっています。最近も「自分史」と「歌集」の出版をしたばかりです。どちらも著者は80代の方々。
お一人は88歳を機にこれ迄の人生をまとめた「我が思い出の記」です。壮絶な戦争体験、そして終戦と就職、結婚、セカンドライフ、4章にわたった大作でした。89歳を迎える前にと、昨年1年間をかけてパソコンと格闘し、家族や孫たちのため、そして戦友にと40冊を出版しました。ありのままの体験や経験を書き綴った「自分史」です。
 もう1冊の歌集は、青春時代の2年間から空白の50年を経て、夫亡き後に再開した短歌集「花びらの渦」です。著者がこれまで生きて来られた心のさまを短歌として表現された自分史です。
 誰しも自分の体験や経験はオリジナルのものであり、記録として残さなければ、自分が得た知識や知恵はそのまま消えてしまいます。「自分史」としての記録を何らかの形にして残しておくことで、家族や子孫、親しい友人とそれらの記録を共有することができるのです。その生きてきた証を残すことは大人としての使命であり責任でもあるといえるかも知れません。

 私にも、亡き母が書き残した1冊の日記があります。
 「―東京に来て、今までの日記は全部捨てた。母なき後に子供たちの涙をそそるから―」
 冒頭に書かれた母の言葉です。そしてノートの所々にはきれいに切り取られた跡が残っています。その足跡に、母の生きることへの強さと、残された我が子への優しさを見る想いがします。
私の母は7歳の頃、音を失いました。明治時代のことで、医療のなすすべもなく、何週間も高熱が続いたことが聴覚障害を持つ原因になったようです。聴覚を失った母は小学校に行くこともできず、毎朝友達が畦道をあるいて学校に行く後ろ姿を、畑仕事を手伝いながら見送っていたようでした。
 「学校に行けないことが悲しくてねえ…」
 当時を思い起こしてそう語る母には、耳が聞こえないことよりも、学校に行けなかったことのほうが悲しく、辛かったに違いありません。
そんな母が父と出会い、8人の子を産み育て、戦争を乗り越え、勝ち越えた人生の想いがこの1冊の日記の中に残されています。
聴覚に障害があるため、母とゆっくり対話をすることができませんでしたが、「日記」を通し、母のメッセージが鮮やかに甦ってきます。まるで側に生きているように…。
 そして、温かな気持ちになれるのです。不思議ですね。
 「冬は必ず春となる」…母の大好きな言葉です。
 「人生の冬はどんな辛いこと出合っても、その苦しさに負けなければ、必ず春のような幸せな人生を生きていけるんだよ」
 77歳の母が書き残した「遺言」です。


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    2015年03月20日 Posted byたまのばあちゃん at 11:26 │Comments(0)自分史個人出版

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