たまりば

地域と私・始めの一歩塾 地域と私・始めの一歩塾多摩市 多摩市

スポンサーリンク

上記の広告は、60日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by たまりば運営事務局 at

始めの一歩は、ひとりから(4) ー創刊号でクレーム!ー

9月1日は「もしもししんぶん」の誕生日。この日はタウン紙発行の目的を再確認する「原点の日」です。
人と人をつなぐコミュニティ情報の発信、地域活性化の一助を担うこと、そして発行日を厳守すること、この三つの目的をはずしてタウン紙の存在はありません。

忘れてはならない厳しい教訓があります。創刊号を発行しホットしたのも束の間、「発行日が遅れたことによる契約違反」というクレームが発生しました。「もしもししんぶん」の配布が発行日までに完了していなかったことが原因でした。タウン紙の制作は一人で出来ても、読者のもとにお届けする作業は到底一人では不可能なことでした。そんな当たり前のことを考える余裕もなく印刷された創刊号は、夫と当時小学生だった三人の子どもと達と家族総出で配布することに。しかし発行日当日は深夜までかかっても二万部の配布は完了出来ず、翌朝一般紙に折り込むことにしました。取次店に「もしもししんぶん」を持ち込んで、一般紙への折込は早くても翌日、発行日より二日の遅れです。このことが、「契約違反」という厳しい結果をうみました。

定期発行物は読者のもとにお届けしてこそ発行されたことになります。趣味や道楽ではなく、広告を掲載して発行する媒体の責任の重さを思い知らされました。広告をいただいたお客さまには丁重にお詫びし、事なきを得ましたが、創刊号でいきなり厳しい現実に出合い、急遽ポスティングのスタッフを募集することにしました。

当時の配布エリアは多摩市永山、貝取、豊ケ丘、落合、鶴牧と八王子市松が谷、鹿島、南大沢の二万軒を担当する地元の主婦を中心に力強いスタッフが誕生しました。その中に社内スタッフよりも長いお付き合いをいただいて、 20 年 以上もの間、共に歳を重ねてきた方々もいます。本当に大切な方々です。
スタッフがお休みの時は私もポスティングを担当します。
「いつも楽しみにしていますよ」という読者の声を励みに「雨の日も、夏の暑さにも負けずに」、直接ポスティングです。
毎年秋には、エリアスタッフ120名が一同に会する総会を開催。年一回の楽しい感謝の集いです。  


  • 2011年08月13日 Posted by たまのばあちゃん at 03:16Comments(4)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから。(3)ー生涯の恩人ー

     タウン紙の発行を続けるために、夫を担保にした悪妻の私。いったいどれくらいの借金を作ったかというと、創刊して3年の間に未払金が200万円を超えていました。勤務先が妻の借金先となり、夫は複雑な心境だったに違いありません。が、その大きなプレッシャーを営業活動にかけ、いつも売上は上位を走っていたようでした。
     夫がその会社に就職したのは昭和60年6月。前年の夏に大病を患い都内までの通勤を断念し、町田市にある印刷会社に応募し採用されました。それまで出版社や印刷関連会社に勤務し、その経験を生かせる願ってもない職場でした。そして、奇しくもその3カ月後に私がタウン紙を創刊することになり、印刷を依頼することになったのです。
     未払金が次第に膨らみ、「もう止めた方がいい」という夫の言葉に、タウン紙の発行を断念しかけた時、私の背中を力強く押して下さったのは社長のKさんでした。私たちはその信頼に応えようと、一躍発心したのはいうまでもありません。その後も長期にわたって公私ともに大変お世話になりました。Kさんは私たちのかけがえのない恩人です。

     創刊2年目の9月、責任ある仕事をするために有限会社として法人化を決意、自宅のキッチンを出て、多摩センター駅前のアパートに事務所を構えました。4畳半1間、リサイクルで購入した事務机に1本の電話を引いただけの小さな編集部でした。
     20数年前の多摩ニュータウンは開発途上にあり、商業施設も少なく、広告取りに歩く営業先を探すことすら困難でした。また、営業経験のない編集あがりの一主婦がどうがんばっても、広告で紙面を埋めることができず、創刊3年を過ぎても印刷費を返済するまでにいきません。それでも発行を止めなかったのは、読者の反応が大きく、タウン紙の役割の大きさを実感していたからです。
     現状は厳しいものの、10万世帯人口30万人を目標に街作りが進む多摩ニュータウンは、活気に満ち溢れていました。新しい街に移り住んだ「新住民」の間では市民活動が盛んになり、公民館活動からさまざまな市民サークルが誕生し、取材対象は大きく広がっていきました。限りない可能性と未来性をもった街で、経営は苦しくても、”読者が主役”をコンセプトにした「もしもししんぶん」は少しづつ成長し、人々に認知されるようになっていきました。

     創刊4年目を迎えた頃、野原が目立っていた多摩ニュータウン通りには次第に店舗が立ち並ぶようになり、飛び込み営業は悪戦苦闘しながらもクライアントが増え始めていきました。少しずつですが未払金の支払いも可能になり、返済期間は約5年間、創刊10年目迎えるまでの月日を要しました。
     完済までの長い間、何も言わずに待っていて下さったK社長への感謝は計り知れません。タウン紙の発行は印刷会社との信頼関係が不可欠です。その信頼と期待にを大切に、毎月の印刷費は、必ず持参することを心がけてきました。K社長への御礼を込めて。
       


  • 2011年08月07日 Posted by たまのばあちゃん at 22:51Comments(3)現役ばあちゃん奮戦記

    始めの一歩は、ひとりから。(2) ー担保になった夫ー

    「もしもししんぶん」の創刊は26年前の9月1日。多摩ニュータウン一角にある「松が谷団地」に入居して間もなく、お隣さん同士のコミュニティーを広げたいとの思いが動機でした。小学生の3人の子どもたちと夫、両親の七人が暮らす3kの都営住宅。キッチンの片隅に置いた小さな机が編集部でした。

    多摩ニュータウンに住む主婦による主婦のためのミニコミ紙は、B4判ペラ1枚モノクロ印刷、毎月1・15日20000部の発行でした。発行日は待ったなしでやってきます。情報収集と取材、記事や版下作りをしながらスポンサーの獲得に動く。毎日手作りの名刺を20枚持って飛び込みの営業です。「この名刺を配り終わらなければ帰らないぞ!」と意気込んで、まだ姿形のない「タウン紙」への広告掲載をお願いして歩きました。それまで全く営業経験がなく、怖いもの知らずの私は、使命感に燃えて突っ走りました。今から思うと、当時の無鉄砲さに身震いさえします。

    定期発行物のため、どんな理由があっても、発行日が遅れたり休刊したりすることはできません。目標の広告が取れなくても、空いた紙面を記事で埋めて制作します。一件でも広告が入れば、掲載料の金額に関わらず発行する事に全力を上げます。例え赤字になっても、広告主の誠意にこたえることが、信頼の絆を作ることになると信じていました。タウン紙を発行する責任者として、この姿勢は今も変わりません。しかし、広告が取れずに赤字の発行が続けば継続は出来なくなります。フリーペーパーは無料配布ですから、発行のたびに、印刷所への未払金は確実に膨らんでいきました。

    そんな時、傍でハラハラしながらも見守ってくれていたのが夫です。当時、タウン紙の印刷を依頼していた会社に勤務していた夫は、私にリスクの大きい仕事を許したことを後悔していました。発行に直接携わらなくても、資金面の出処は夫の給料しかありません。しかも、自分が働いている会社が妻の借金先ともなれば、夫は「鍼の筵」に座る思いです。ある日、夫は言いました。「俺は担保か」と。

    現在代表を務める夫は、お客さまに「創業者は女房です」といいますが、夫という経営者がいなければ、タウン紙の継続はできませんでした。創刊の「始め一歩は」一人でしたが、隣に厳と存在する夫という同志がいて守られてきました。本当に感謝です。  


  • 2011年08月01日 Posted by たまのばあちゃん at 00:44Comments(4)現役ばあちゃん奮戦記