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Posted by たまりば運営事務局 at

始めの一歩は、ひとりから。(1) ー母は太陽ー

 私は働くことが大好き。例えば忙しくて徹夜になっても苦しいと思わないくらい仕事が好きなのです。求められれば応えたい、と思うからです。性分ですから止めようがありません。
 子どもの時からの夢は、「職業婦人」になることでした。少々古い言葉ですが、「経済的な自立のできる女性」ということでしょうか。現代では女性が社会に出て働くことはごく自然なことですが、今から30数年前は、女性が働き続ける壁はとても厚いものでした。
 私の母は聴覚に障がいがあり、職業は持ちませんでした。それでも8人の子どもを育てながら、貧しさにも負けず、決して自分を卑下することなく、堂々と生きてきた気丈な人でした。まさに「太陽」のような女性でした。この母の偉大さは、子育てを終えた年齢になってから理解出来るようになったのですが、幼い頃は、経済力を持たない母の人生は、生きる選択肢を持てない弱い立場に見えました。そんな環境が「働く女性」への憧れになったのでしょう。
 ベビーブーマーと呼ばれた私たちの世代は、受験戦争に巻き込まれ、当然ながら職業に就くことも競争でした。私は某学校の夜間高校に学びながら、幸いにも小さな出版社に就職することができました。企画、取材、原稿書き、校正、写真撮影、空きスペースがあればイラストも描くなど、出版に関することは、全て一人でやり遂げなければなりません。仕事に厳しい鬼の編集長には、一回教えられたことは二度と質問することができませんでした。仕事は一日中緊張の連続でしたが、その反動で夜学生活は何と楽しかったことか。あの青春時代の奮闘は本当に懐かしく、このまま生涯現役で働き続けたいと思うエネルギーの源でもあります。
 「もしもししんぶん」を創刊した時、同居していた母が50万円の出資をしてくれました。その資本金で、多摩センター駅前にあった4畳半一間のアパートを借り、電話を一本引いて編集部が完成。たった一人でスタートしたタウン紙の発行は、今は亡き母の応援が支えでした。  


  • 2011年07月23日 Posted by たまのばあちゃん at 01:20Comments(2)現役ばあちゃん奮戦記